飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI
「飛騨の匠って何なんだ」講演資料
2025飛騨の家具フェスティバル 講演「飛騨の匠って何なんだ」資料
日時/令和7年7月6日(日)13:00分~
会場/飛騨・世界生活文化センター(コンベンションホール)
講師/田中 彰
- ①法隆寺の国宝釈迦三尊を造った
止利仏師 (飛騨市河合町天生の出身)
・飛騨市河合町月ケ瀬(つきがせ)の「鳥(止利)仏師」の伝説
都から鞍部多須奈(くらべのたずな)(帰化人)が仏像を彫るのに良い木材を求めて飛騨に入り、河合町天生の山中・月ケ瀬に住む娘と結ばれて子どもを授かった。子は鳥のような首をしていたので鳥(とり)と名づけられた。17歳のとき奈良の都に上がり、父の多須奈に技術を習って彫刻師となって名を残したという。
・止利は推古天皇14年(606)、日本最古といわれる飛鳥大仏(上写真・銅造釈迦如来坐像・重文・奈良県明日香村)、推古天皇31年(623)には法隆寺の釈迦三尊像(国宝)を造ったとされている。
- ②万葉集に歌われる飛騨匠
斐太人の真木流すとふ丹生の川 言は通へど船そ通はぬ
ひだびとのまきながすというにゅうのかわ ことはかよへどふねぞかよわぬ
かにかくに物は思はじ斐太人の 打つ墨繩のただ一道に
かにかくにものはおもわじひだびとの うつすみなわのただひとみちに
- ③平安貴族に囲い込まれ、飛騨に戻らなかった匠
・平安時代中期、飛騨工として木工寮37人、修理(しゅり)職(しき)63人の従事記録がある。
・年間330~350日働かされ、苦役であった。
また、庸調が免ぜられたというものの、1.6~2.4倍の負担となった。
・延暦15年(796)、逃亡した飛騨工を捕まえて差し出せとの法律が出来る。しかし捕まった匠はいなかった。都の貴族に厚遇されて留まったと考えられている。
- ④イギリス、ドイツ語に訳された『飛騨匠物語』
『飛彈匠物語』の著者は石川雅望、挿絵は葛飾北斎で、江戸時代の人気本であった。
ヨーロッパで日本の文化が忠実に紹介されていて、日本文化への敬意を感じる。飛騨匠は世界に知られていった。
- ⑤奈良、京都への匠街道
飛騨匠は自分たちの食糧を飛騨から持参しなければならなかったため、奈良まで上京約15日、帰りは荷が無いので約8日(『延喜式主計上巻24』参考)とされている。
飛騨匠100人が奈良、後に京都へと通った飛騨支路は、都から宮殿や寺院などの建築文化を飛騨に伝える重要な道であった。
- ⑥匠制度が終わって、その後の匠
飛騨(ひだの)匠(たくみ)制度が平安時代末に終わり、その後、匠たちはどこで活躍したのだろうか。地元飛騨で帰農し、飛騨国内外で仕事が生じたときに出向いたとみられる。中世以降、各地の寺社建築に飛騨匠の名が出てくる。
江戸時代、高山の町家建築は高い技術力で飛騨匠によって作られ、古い町並みとして現存している。
- ⑦良い材、良い大工、良い施主から生まれる名建築
飛騨の町家大工は明治になると、江戸時代の規制を受けなくなって豪壮な外観と吹抜けを自由に造れるようになった。
全国の商家の吹抜けは数多くあるが、高山の町家の吹抜けは洗練されて、上品上質であり、飛騨匠の優れた美的感覚が感じられる。
①良い材料(飛騨の良材・木目が細かく、耐久力に優れている)、
②良い大工(優れた飛騨匠の技術を持ち、大工それぞれが自身と誇りを持つ)、
③良い施主(良い建物を造ってほしいと大工に任せ、あまり口出ししない)
の3条件は、高山独特の素晴らしい吹抜けの大空間や優れた建物を生み出した。
- ⑧飛騨の建築の何が素晴らしいのか
そして建築から家具への派生
・飛騨の建築の特徴
ア 飛騨の山林は樹種が多く、材質がすぐれている。この材がふんだんに使用されている。
イ 大工、関連する職人(匠として総括)は建築技術向上の意識、競争意識が非常に強い。
ウ 施主に上品上質の文化がある。
エ 匠、施主に先祖、先輩に敬意を表する意識が強く、建物の保存に前向き。
*都に徴用された飛騨匠は、建物だけでなく木工製品の製作にも従事。
それは現在の家具作りにも通じている。
- ⑨飛騨匠の日本遺産認定
「飛騨匠の技・こころ ― 木とともに、今に引き継ぐ1300年 ―」 高山市
平成28年、日本遺産に認定された。
<岐阜県内の日本遺産認定>
・平成27年・「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜
・令和元年・1300年つづく日本の終活の旅 ―西国三十三所観音巡礼―
揖斐川町ほか23市町
・令和2年・木曽路はすべて山の中 ―山を守り 山に生きる―
中津川市ほか7市町村
