飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI

糸の匠

飛騨紬から製糸に

 

江戸時代から、飛騨の養蚕農家では繭の出荷に励む傍ら、出荷できない繭を利用して布団用の真綿や紬を織っていた。通常のマユ糸は1,500mになるというが、オオマユは中にサナギが2匹入っているので絡まって1,500mにならない。この紡ぎ糸はコブがあったり、太さが不揃いなこともあって、織ると多少デコボコするが、むしろその風合いが良い。糸車を回転させて、紡錘(ぼうすい・細い針状の鉄棒)を回し、それに真綿から引き出した細い糸帯を絡めて撚りをかけ、次に巻き取ってゆく。糸を紡ぐ作業は単純であるが、ここで紡ぎ糸の良し悪しが決まるという。


 飛騨ではこの紬に、独特の縞模様を工夫し、こうと(上品)な風合いを持つ「飛騨紬」として自家用に、また製品として販売した。飛騨紬の手機織りは、飛騨の女性が心外仕事(本業以外の副業)として臨時収入を得られる重要な副業であった。また大事な家族によそ行きの絹織物を機織りで完成させて着せる喜びは何にも勝るものであったという。嫁がせる娘に、母親や祖母が丹精を込めて手織りする飛騨紬、その反物や着物には飛騨の女性の糸に対する強い想いと伝承された機織り技術が背景にある。
 江戸時代の前半、飛騨の養蚕はそれほど盛んではなかった。ところが、「津野滄洲」(享保3・1718年~寛政2・1790年)という高山商人が、蚕業に力を入れ、飛騨の養蚕を画期的に発達させている。


 津野滄洲は高山二之町に住み、屋号を福島屋といった。滄洲は三河地方へ出向いた時に蚕業の進歩的なことに注目し、高山へ帰ると第4代代官森山又左衛門実道(さねみち)に事業の必要性を説いて賛同を得た。飛騨の村々を説得してまわったものの、最初は誰もその気にならなかった。それでも滄洲は私財3,000両をつぎ込んで蚕種や桑苗を購入して無償で配布、養蚕の利益と技術改良に力を尽くした。それからというもの、飛騨の養蚕はすこぶる発達をし、生糸と紬の生産量は50倍以上になったという。高山商人は、木材産業を中心として全国的に活動していたが、福島屋も新しい産業に意欲を持っていたのだろう。


 合わせて、飛騨の糸引き工女の技術も高まり、1842(天保13)年には第20代郡代豊田藤之進が、近年糸引稼ぎに信州へ行くので、国外へ出ず、益田地方へ出るようにと通達を出している。飛騨の女性は手先が器用で、しっかりと仕事をする点が信州でも評価されていた。飛騨の人を語る時、男性は木工技術の匠、女性は糸の匠といえるのではないか。木工は山稼ぎの木挽から運材をはじめ、宮殿建築、屋台建造、高山の町家建築に至るまで、「飛騨匠」というブランドでその技術を発達させてきた。そういった匠の技の恵まれた環境に育った飛騨の女性は、ものづくりへの考え方がしっかりとしたものになり、礼節を重んじ、忍耐強い気風が育ったのだろう。
 飛騨の農家建築は、2階で蚕を飼えるよう、広い空間を持っていた。囲炉裏の煙は桑の葉の害虫を追い出し、消毒をしている。そこで生まれた繭は絹糸に変わり、出荷できない繭は飛騨紬になって飛騨の女性たちを美しく飾った。

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