飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI

大工の系譜と建築

照蓮寺本堂(室町時代、国重文)<棟梁・池守源五>

照蓮寺本堂は高山市堀端町の城山公園内二之丸にあり、旧所在地は大野郡荘川村中野(現高山市荘川町)である。永正年間(1504〜1521)の建立と伝えられるこの本堂は、書院造を基調として、道場発祥の過程を物語る真宗寺院最古の遺構である。


本堂(1棟)の規模は桁行7間(16.27m)、梁間9間(20.05m)の入母屋造で、トチ葺形銅板葺となっている。棟札が1枚あって「飛州白川光耀山照蓮寺住持云々 延宝六戊午十月十九日 奉行三嶋宇右衛門 棟梁 池守源五」とある。

 

荘川村中野にあって「中野御坊」と呼ばれてきたが、御母衣(みぼろ)ダムが建設されることになり、1958(昭和33)年から1960(昭和35)年にかけて現在地に移築された。延宝6年(1678)の棟札や小屋束の墨書から、当時の流行であった本願寺式急勾配の屋根に改装されていたことがわかり、移築の際に創建当初の緩やかな屋根に復元された。

 

杉柾目(まさめ)の柱に取られた広い面、柱の上の美しい曲線を描く舟肘木(ふなひじき)、広縁内部の調和のとれた舞良戸(まいらど)と明障子(あかりしょうじ)など、仏壇構えの内陣と共に上品な雰囲気が漂う。良材を駆使して完成させた、日本最古の雅な道場建築である。


照蓮寺本堂(室町時代)

国分寺三重塔(文政4・1821年、県文)<棟梁・水間相模>

高山市総和町1丁目83番地に所在する。建物の規模は桁行、梁間共4.24mで、塔の高さは礎石上端より宝珠上端まで22m、屋根は銅平板葺である。


741(天平13)年の詔勅により建立された塔婆(とうば)も、819(弘仁10)年に炎上し、斉衡(さいこう)年中(854〜857)に再建した。応永年間(1394〜1428)、さらに兵火にかかったと伝えられる。


その後再建されたが、戦国時代金森氏が松倉城の三木(みつき)氏攻めに際し損傷し、1615(元和元)年、金森可重が三重塔を再建したと三福寺小池家文書「国分寺大平釘図」に記録されている。

 

現在の塔は、1791(寛政3)年大風で吹き倒されてから31年後、庶民の喜捨浄財(きしゃじょうざい)金800両と大工手間5,500人工をかけて、1821(文政4)年、ようやく竣工をみたものである。


国分寺三重塔

棟梁は第3代名工水間相模(みずまさがみ)であった。1978(昭和53)年には屋根の修理と自火報設備、保護柵を設置した。屋根は、建立当初柿葺(こけらぶき)であったが、1922(大正11)年に桟瓦銅板葺に変更され、1978(昭和53)年には銅平板葺となった。飛騨で唯一の塔建築で、金剛界(こんごうかい)、胎蔵界の大日如来(真言密教の教主)を安置する。
塔の建築には、棟梁の娘八重菊の悲話伝説がある。

宗猷寺本堂(文政7・1824年、市文)<棟梁・坂野半三郎>

高山市宗猷寺町218番地に所在する。建物の規模は桁行18m、梁間15.9m、木造入母屋造、銅平板葺。臨済宗妙心寺派の寺院である。


開基は金森氏第3代の重頼、重勝(左京)の兄弟が、父可重の菩提を弔うため1632(寛永9)年、妙心寺前住の「南叟宗安」和尚を迎えて開山した。初め新安国寺といったが、重頼の法号「真龍院殿」と重勝の法号「徽雲宗猷居士」から、山号を「真龍山」、寺号を「宗猷寺」と改めた。


南叟宗安は、1563(永禄6)年の兵火で荒れ果てた高山市国府町の安国寺を復興したが、重頼の願いにより宗猷寺の開山として兼任をしたのである。


本堂は基壇上に建ち、前面の三方が吹抜けで、敷石床となった禅宗様式の強いこの本堂は、1824(文政7)年8月26日落成され、大工棟梁は名工坂野半三郎であった。


量感ある外観を持ち、仏殿や法堂(はっとう・講堂)の基本形である敷石床を前面に、内部を畳敷きとしたことは、その古い形式をよく表している。五山の仏殿や法堂にならって外観を二重にするとともに、和様や大仏様の手法も取り入れた、堂々たる寺院建築である。


宗猷寺本堂

千鳥格子御堂(17世紀頃、市文)

高山市荘川町六厩(むまや)字宮谷口に所在する。


「小鳥白川六厩のお寺、こけら葺きとは知らなんだ」と唄われる立派なお寺(了宗寺)を建立した棟梁は、日頃、村境の軽岡峠に辻堂のないことを残念に思い、寺の建立が終わると、その余材をもって峠の辻に地蔵堂を建てた。


その堂の扉がこの千鳥格子といわれ、その細工の妙は、ここを通る旅人の誰もが等しく感心したという。飛騨匠の名にかけての作で、何処でどのように組み合わせたものか、外観では全くわからない。


現在は、国道付け替えにより辻から現在地に移され千鳥格子保存会で保存しているが、その格子の一部が破損したままになっている。これは、明治初年の頃、高山に住んでいた岡田某という大工がこの格子の秘密を探り出すために壊したもので、後に、この大工は高山市内にこれと同じような稲荷堂を建てたという。細工の秘技を知ったのであろう。


六厩の寺を建てた棟梁が誰であったかは明らかでないが、寺の建立に軽岡峠を越えて通っていたという村人の言い伝えがある。


千鳥格子御堂

東照宮本殿 附唐門透塀(文化15・1818年、県文)<棟梁・水間相模宗俊>

高山市西之一色町3丁目1004番地に所在する。


本殿の規模は方2.73mの霊廟建築で、唐門付銅平板葺、桁行1.82m、梁間3.94mである。正面の門は唐門造で、透塀は延長62mである。


彫刻は谷口与鹿の師である中川吉兵衛。


金森氏第3代重頼(しげより)が1616(元和2)年、高山城内に徳川家康を祀った東照宮を奉祀(ほうし)したが、1680(延宝8)年には現在地に遷座された。諸国が勧請(かんじょう)した東照宮は、全国で百数十カ所を数え、寛永年間(1624〜1644)徳川家光の東照権現に対する崇敬と幕府勢力の伸張に伴って建立されたものが多い。


その後金森氏が1692(元禄5)年に出羽へ移封になってからは、荒廃してしまった。これを嘆いた金森の子孫重任が神社の再建を志した。時の郡代芝与市右衛門正盛(第18代)がこれに賛同し、町人の協力を求め、神社を再建したのである。


大工棟梁は水間相模宗俊、彫刻は谷口与鹿の師である中川吉兵衛が受け持ち、1818(文化15)年4月上棟が行なわれた。1961(昭和36)年、本殿と唐門の屋根を柿葺(こけらぶき)から銅板葺に改修し、1975(昭和50)年には石垣と石段を修理した。


建物外観をみると、唐門を取り込んでイチョウ透かしの透塀が巡らされている。この一連の配置と建築様式は桃山時代に完成した廟建築の典型であり、飛騨では唯一の建物である。


本殿は切妻造りで平側に唐破風造りの向拝を付け、正面屋根に千鳥破風を据える。千鳥破風は、屋根面にのせる小形の入母屋破風のことで、破風の三角形を千鳥とみなしている。透塀や唐門、独立した本殿の建築様式は、全国の東照宮と似た形式である。


東照宮本殿

日枝神社拝殿 附棟札(安永8・1779年、市文)<棟梁・東雲勘四郎>

高山市城山156番地に所在する。建物の規模は桁行9.65m、梁間7.47mで、寄棟造、銅板葺、方三間である。棟札が2枚ある。

  1. 安永八己亥天二月吉祥日 願主 屋貝権四郎苗仙 矢嶋茂右衛門成暢 川上齋右衛門文質
  2. 天下太平安永八己亥年国土安穏二月吉祥日 棟梁 東雲勘四郎 脇大工 池田甚三郎 今村小左衛門

日枝神社拝殿

富士社社殿 附棟札(寛延元・1748年、市文)<棟梁・松田太右衛門以治>

高山市城山156番地に所在する。建物の規模は桁行6.82m、梁間4.54m、三間社流造、正面千鳥破風、軒唐破風付、銅平板葺である。

<棟札>(2枚)

  • ①「奉上棟造立郷本社 寛延元年十月吉日立ル 大工 棟梁松田太右衛門以治十分一地割作 大工廣田武兵衛良親 松田太平次以永 中村忠五郎宗茂 音頭 廣田藤右衛門政春」ほか13名が表面に書かれ、裏面には工作手間967工半、それに従事した大工と手間の明細が記載されている。
  • ②「奉極彩色山王本社-略-頼旹代」裏面には、願主の三之町角竹市助ほか6名と年号「文化七年七月」が記されている。

金森長近は飛騨へ入国すると、高山城の守護神として山王社を現在地へ奉遷(ほうせん)した。1748(寛延元)年10月、郷の本社としてこの社殿が建てられ、1810(文化7)年には極彩色の修理を行なっている。当時は、「両部習合神道(りょうぶしゅうごうしんとう)」「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」をもって松樹院が設けられ、山王権現宮と呼ばれた。国分寺との関係を持っていたが1826(文政9)年には京都真言宗仁和寺末(にんなじまつ)となった。1869(明治2)年、神仏分離政策により社名を「日枝神社」とした。


1935(昭和10)年、豪雨で裏山が崩れて本殿が倒壊したため、1938(昭和13)年4月新本殿を建てた。旧本殿は破損箇所を修理して末社殿(富士社)として移築し現在に至っている。この末社殿には富士神社他2社の御霊代を祀ってある。流造りに千鳥破風、軒破風を取り入れた屋敷形態を持ち、極彩色が施されているのも珍しい。飛騨の名工松田太右衛門の作である。


富士社社殿

熊野神社本殿(延宝8・1680年、市文)<棟梁・池守源五>

高山市赤保木町22番地に所在する。建物の規模は桁行2.1m、梁間1.85m、一間社流造、カラー鉄板平葺である。金森時代の作風をよく残している。1680(延宝8)年、春慶師成田三休の寄進により建立、大工は池守源五(いけのかみげんご)で、数少ない遺作である。


棟札1枚、祈祷札1枚、額1面が付(つけたり)で指定されている。

棟札(一枚)成田三休自筆、表裏とも春慶塗、熊野権現宮社、延宝八年四月五日、大工池守源五
祈祷札(一枚)成田三休自筆、表面のみ春慶塗、延宝九年二月吉祥日、願主成田正利玄覺智生居士、裏面には「成田氏正利 六十四歳納焉」とある。
額(一面)成田三休自筆、熊野神社の建立記を朱漆で書いている。延宝八年仲秋(八月)


熊野神社本殿(右側が本殿)

荒城神社本殿 棟札7枚(明徳元・1390年、国重文)

高山市国府町宮地垣内1405の1に所在する。建物は三間社流造り、柿葺(こけらぶき)、素木造りである。


宮地鎮座の荒城神社は、『延喜式神名帳』にある飛騨国八社の一つで、祭神は天之水分神(あめのみくまりのかみ)・国之水分神(くにのみくまりのかみ)であるが、大荒木之命(おおあらきのみこと)を祀ったとの説もある。俗に荒城宮または河泊(かはく)大明神と呼ばれている。つまり川の神、水の神として地域の信仰を集めてきた。数度の修理をしたが、1932(昭和7)年、大修理をしている。


棟は箱棟とし妻飾豕叉首式(つまかざりいのこさすしき)、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)で母屋は円柱の上に雄健な舟肘木(ふなひじき)を置く。向拝の柱は方柱で9分の1の大面取り、この上に唐様三斗(からようみつと)を置く。両端の木鼻の上には天竺様の皿斗(さらと)をつけた斗(ます)も見える。


また向拝正面中央を飾る蟇股(かえるまた)は、肩の巻込みの眼が痕跡だけとなり、しかも両肩に大きな耳をつけたものは室町期のものであるが、内側の繰り抜きは宝珠を中心に若葉を相称形にした古い形式のものである。


正面中央は抜戸、左右間は地蔵格子とし、側面は縦羽目板壁(たてはめいたかべ)となっている。母屋は正面中央間だけ、両開きの板唐戸、他は板壁、側面後部に脇障子をつける。


荒城神社本殿

旧高山町役場 附棟札及び新築関係書類(明治28・1895年、市文)<棟梁・坂下甚吉>

高山町役場の建築材は総檜で、高山市一之宮町餅谷の官材を使用している。材は宮川を流し、枡形橋で川上げした。棟梁坂下甚吉らの目で選りすぐられた良材をふんだんに使用しているので、現在も土台、構造体はしっかりしている。


建物は、「高山市三町伝統的建造物群保存地区」内の南端にあって、一之町、二之町、三之町を見渡す重要な位置にある。江戸時代には、ここに「町会所」の建物があって一之町村、二之町村、三之町村の町年寄が3人共出勤して事務を執っていた。


後、1人ずつの月番となって、住民の戸籍、家普請願、宗門改(しゅうもんあらため)、訴訟、旅行願、御番所通過手形下附願など、現在の市役所が扱っているような仕事をしていた。


1890(明治23)年12月5日、直井佐兵衛、住民平ら町会議員で役場新築委員会を構成したが、建物のデザインをどうするか、大もめにもめた。論議を重ねたうえ1893(明治26)年1月にはようやく事業に着手している。


しかし高山市一之宮町の官材を使ったり、鋳物の鉄柵、ガラス障子、瓦などのハイカラな設備を取り入れたため建築費は高騰した。1894(明治27)年3月頃から本格的に工事を始めた。6月27日には建前竣工、同年11月3日には略落成をして、仮役場から移転して、各委員の祝宴を開いている。


1895(明治28)年11月3日、役場前広場に仮設舞台を作って盛大に新築落成式が行なわれた。当時高山町民はこのような建物を見たことがなく、外観・内装・間取など、すべてが驚きであった。


大工棟梁は、飛騨の名工といわれた坂下甚吉で、舟坂直蔵、白川惣六ら諸職人共一流の人たちによって建てられた。坂下甚吉は、8歳の時から永田家出入りの大工で、当時は34歳である。


永田町長の自費で東京、名古屋に出張させてもらい、各地の明治初期建築を見て勉強をしたのである。甚吉は1930(昭和5)年、70歳で没するまで高山を中心に多くの社寺や洋風建築、邸宅を手がけた。旧三星製糸所、旧押上邸洋館など、伝統的な技法を基にした上で洋風を巧みに消化し、その評価は高い。


1936(昭和11)年には、市制施行により高山市役所となった。1968(昭和43)年10月28日、市役所は馬場町2丁目115番地、元東小学校校舎へ移転し、行政の中心としての役目を終えた。


その後は、公民館として利用されたが、新文化会館が高山市昭和町に建設されたため、歴史的建造物として保存することになった。1982(昭和57)年に文化財として指定し、1983~85(昭和58〜60)年に文化庁と岐阜県の補助を受けて復元工事と周辺環境整備を行なった。1986(昭和61)年4月1日、高山市政記念館として開館した。


旧高山町役場

高山の町並み保存の歩み <重要伝統的建造物群保存地区>

城下町高山は、城郭、武家屋敷、東山寺院群、商人町という四つの地区に分けて城下町が形成された。現在、その中の商人町の一部が国選定の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。「三町」「下二之町大新町」の2地区11haである。


江戸時代後半には、火災対策のために土蔵が作られ、家財道具をそこに納めるようになる。江戸時代は主屋の各部屋に生活道具を置かず、土蔵内に格納しておいて必要なものを必要な都度出してきた。家財道具は今と比べてものすごく高価なものであった。この土蔵は中庭の奥に整然と横一列に並んで「群」となり、防火帯としての役割を果たしてきた。

<国選定重要伝統的建造物群保存地区>2カ所

高山市三町伝統的建造物群保存地区

選定 1979(昭和54)年2月3日
追加選定 1997(平成9)年5月29日
面積 約4.4ha、南北約420m、東西約150m
保存会

恵比須台組町並保存会、上三之町町並保存会、上二之町町並保存会、片原町町並保存会

高山市下二之町大新町伝統的建造物群保存地区

選定 2004(平成16)年7月6日
面積 約6.6ha、南北約780m、東西約180m
保存会 鳩峯車組町並保存会、神馬台組町並保存会、船鉾台組町並保存会、豊明台組町並保存会、浦島台組町並保存会、大新町1丁目3班町並保存会、越中街道町並保存会

高山市下二之町大新町伝統的建造物群保存地区(鳩峯車組町並み保存会区域)

ページの先頭へ戻る