飛騨の匠とはHIDA NO TAKUMI

鎌倉時代 郡上市 長滝寺は「藤原宗安」が建造した

中世鎌倉時代に活躍した飛騨匠藤原宗安

平安時代終焉までの都の造営に携わる飛騨の匠は政府機関である木工寮や修理職に配属されていたことで幸いにもその記録が残されたが、鎌倉時代からの中世以降はそれまでの法律の鎖が解かれ自由にはなったものの、古代にはあった公の記録はほとんど残っておらず流れが途絶えた感は拭えない。ただ飛騨の匠の活躍が突然なくなってしまったとは考えにくく、実際はすばらしい多くの出来事があったと考えていいのではないだろうか。

唯一、中世鎌倉時代の史実として実在した飛騨権守藤原宗安が郡上市の長滝寺を建造した事績があるが、中世についてはそのこと以外に、今のところ飛騨の匠の史実が見当たらないのが実態で、今後もっといろんなものがたりが明らかになることを望んでやまない。

飛騨国分寺に木彫りの肖像「木鶴大明神」が鎮座する。昔から木匠たちは飛騨の大工の始祖として親しみをもって崇敬された。鎌倉時代後期に実在した飛騨権守を唱える 藤原宗安のお姿を「木鶴大明神」とする説がある。


文化文政期に建て替えられ1899(明治32)年灰燼に帰した大講堂。写真下の人物と比較すれば、その規模の大きさがわかる。

現在の大講堂 

木鶴大明神(高山市指定文化財 飛騨国分寺蔵)

寺の歴史と大工頭 藤原宗安

美濃国郡上郡の白山中宮長瀧寺は、奈良時代の養老年間(717〜724)越前の僧泰澄が創建し、加賀、越前と並ぶ白山信仰三馬場の一つ美濃馬場として栄えた。

長滝寺の最初の大火は1271(文永八)年に焼失したが40年後の1311(応長元)年社殿再建に取り掛かる。そのときの大講堂造営の大工頭として棟札に飛騨権守藤原宗安の名が銘記され残されていたが、1899(明治32)年に2度目の大火で藤原宗安造営の大伽藍が惜しくも全焼した。

焼失しなければ間違いなく国宝になっている。往時の大講堂の偉容は境内の石灯籠や堂塔の礎石など中世寺院遺構によってわずかに偲ぶことができる。幸い大正から昭和にかけて神社本殿と拝殿、長滝寺の講堂などがもとの場所に再建され現在に至っている。

大講堂の規模と上棟に携わった大工名が棟札に銘記

大講堂の規模は次の通りである。

梁間14間、桁行18間、四方に7尺の縁がつく。桝形の組物が付けられ、屋根の垂木は二重になっている。棟高は9間4尺、丸い柱は40本あって、太さは9尺廻、天井に裏板が張られている。仏壇は3間11間と大きく、黒漆塗で、欄干がある。東面の中央14間には扉が付けられる。

北、南、西に扉が二口宛設けられる。(14間扉は東側か)八講用の論講する座が二個あって、長9尺巾1間、天井は厥手が施されている。

 

大講堂1棟 上棟

1311(応長元)年七月四日に上棟
大工は肥前権守的宗里 飛騨権守藤原宗安
権大工は太郎太夫宗綱 孫太夫藤原宗行 音頭 右近太夫橘宗定太郎太夫窓宗空 大工以上三十二人とある。

 

藤原宗安とその一統について白鳥町史「白鳥町教育委員会編集『白鳥町史 資料編』411〜431ページ 白鳥町発行 昭和48年」に記録されていることは、飛騨では宗安の遺構がないだけに貴重な町史といえる。

 

古代・中世において実在した飛騨の匠は、奈良時代に活躍した勾猪麻呂(注1)とこの鎌倉時代の藤原宗安の二人だけである

(注1)勾猪麻呂(まがりのいのまろ)
実在した飛騨の匠。761〜762(天平宝字5〜6)年、東大寺と石山寺の二大造営工事が行われ、その中に荒木郡出身の勾猪麻呂がいたことが、正倉院文書ならびに造石山院所労劇帳の考課人名表に、従八位上勾猪麻呂年五十三飛騨国荒木郡人上日参伯肆捨肆(勤務日数344の意)と銘記してある。数多く出役した中で、ここまで昇進した飛騨の匠は文献上見当たらない。

勾猪麻呂の事績
727(神亀4)年長谷寺 729(天平1)年大安寺 730(天平2)年興福寺 732(天平3)年客館(奈良〜平安時代初期、外国使節団の迎賓・宿泊施設) 741(天平13)年恭仁京 747(天平19)年東大寺大仏鋳造

若宮多門宮司が語る

現地、長滝寺境内での若宮宮司のご説明は、

① 天台別院長瀧寺略図

 

加賀白山本地中宮 県社白山神社 天台別院長瀧寺
略図は、明治27年に製作されたもので1899(明治32)年に焼ける直前の5年前までの構築物の配置図で配置の内容はかなり信憑性が高い。


天台別院長瀧寺略図

② 若宮家所蔵 古地図 (白山中宮濃州長瀧寺之図)

若宮家の古い地図は実際には室町末期以前に描かれたものだと思う。というのは明確に三重塔が描かれている。若宮家の古記録には天正の大地震では三重塔は倒れなかった。明くる年の大風でどこかに歪(ひずみ)があって倒れたことが考えられる。それを作成したのはちょうど戦国時代で世の中が一番乱れていた時代で、登り1,000人、下り1,000人といわれるくらい庶民が上り下りをしたというが、そのときに配ったのがこの絵図面である。だからこれには三重塔も描いてある。これだけ多くのお堂があったが、現在はご覧の通りの状態となってしまった。


若宮家所蔵古地図

火災後、唯一の遺構 石灯籠 (国重要文化財)

火災後の白山本地中宮長滝寺の再建に際して1302(正安4)年、伝燈大法師覚海の石灯籠寄進によりたてられたと銘記され、拝殿前広場の本殿中央と大講堂中央の両方から見て正面の位置にある。製作年代は明確、石造美術上また白山信仰上の貴重な資料であり、国重要文化財に指定されている。当時の遺構で確認できるのはこの石灯籠だけで最後の鎮めのためにつくられた。

鎌倉時代に全山が燃えて、そのあとの再建の時に飛騨から宗安以下大勢のものが来て全部作り直した。大御前社 別山・越南智・若宮・大将軍 これらは絵図面にある時点では間違いなく飛騨の工人たちがつくった。石燈籠は大工左近太夫藤原依宗(よりむね)がつくったことになっている。

 

飛騨の大工さんが宗安を始祖とすることは的を得ている。工人として、個人名で著名な匠の人というのは、鎌倉時代に登場してくるのは藤原宗安しかいないだろう。それ以外は飛騨の匠たちとしてしかいわれていない。

 

大講堂には、丈六仏をはじめとして、台座を含めれば6m級のものが7体もあったが、1899(明治32)年に全山燃えてしまった。火災の原因は民家からの飛び火であった。こけら葺きの屋根の上に火の粉が落ちてしかも大講堂から類焼して燃えた。一番最後に復興した長瀧寺大講堂は1936(昭和11)年に落慶法要をする。要するに40年かかってお寺のことは一番後回しになった。

1302(正安4)年7月に奉納された石灯籠

明治32年に焼失した大講堂礎石。礎石が黒くなっているのは火事の時の焼けた色だと思う。奥に見える建物は現在の大講堂、当時の大講堂の威容が伺える。

明治32年全焼した大伽藍 その5年前に撮影された大講堂

若宮宮司の話

1899(明治32)年焼失した大講堂は文化文政期に建て替えられたもので、宗安の手になるものではないと思う。構造的なものは土台を活かして、それを基に建てているが礎石が黒くなっているのは火事のときの焼けた色だと思う。飛騨の匠 藤原宗安の腕・技の素晴らしさを伝えるために、長滝寺の講堂を見よと皆が参考にした。

 

この大講堂は宗安にとって大事業であった。かつて、高山市の中心地あたりから西半分の飛騨の国は、おおよそ長滝寺の神領域であった。川上新宮(今の高山市新宮町)は有事の際何かあると陣を構える場所で、もともと長滝寺の出張所だったことは記録上明らかなことである。北部に中心地ができて、武儀郡の上の郡ということで、郡上郡と名付けられた。

 

それくらい白山文化の影響力が高かったといえる。当然飛騨の方にもその影響が及んでおり、技術者が宗教都市の周りに木工・金工・絵師、その他、各お寺がそれを伝える技術を持っていた。長滝寺が宗安の家族や弟子ごと呼び寄せて扶持(給金)を与えるぐらいの力はあったし、その後も宗安の弟子たちが立花六角堂だけではなく白山信仰に関する建造物を建てたことが容易に想像できる。


1899(明治32)年大火焼失後再建された、手前より大将軍社、越南智社、大御前社、別山社、若宮

解説

廃仏毀釈
明治初年,維新政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教排斥,寺院・仏像・仏具破壊運動。1868年旧3月,太政官布告による神仏判然令によって神仏分離が急激に実施された。
権守(ごんのかみ)
「権守・権頭」=長官(かみ)の権官(ごんかん)
「長官」(かみ)=律令制の四等官の最高位の官職の総称
官庁を統率する最高の地位
「権官」=権勢のある官職また、その職にある人
令で定める正官以外に、権(かり)に任ずる官 権大納言、権頭、権別当など、権僧正、権大宮司などの僧宮に置かれた
「権」=1.(実に対して)仮(かり)、2.官位に示す語に冠して定員外に権(かり)に置いた地位を表す語、3.本来のものに準ずる意を示す語
寺の名称について
文中に長瀧寺と長滝寺があるが、本来は長瀧寺で旧字の瀧の字が使われていたが、明治維新以降、行政的に簡易な滝の字が使われるようになった。長滝寺は水信仰のため、お札等は現在も瀧の字を使用している。

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