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東京美術学校工芸技術講習所が高山にあった 続編3

工芸技術講習所時代の回想 漆芸家 井波唯志

井波唯志

 1923(大正12)310日、代々加賀蒔絵を営む二代目喜六斎の長男として金沢市に生まれる。本名忠。1944(昭和19)年東京美術学校附属*文部省工芸技術講習所卒業。在学中は漆芸を山崎覚太郎に、陶芸を加藤土師萌と富本健吉に師事し美術工芸の方向を探求するようになる。その後,父の二代目喜六斎(日本工芸会正会員)より加賀蒔絵の技術を習得するが、活躍の場は日本工芸会ではなく日展や日本現代工芸展が中心となる。両展で評価を受けたものの多くが漆屏風や漆芸額であり題材も抽象的でモダンな作風である。(東京文化財研究所企画情報部『日本美術年鑑』平成24年版、国立文化財機構東京文化財研究所、2014年、425頁。)

*東京美術学校の附属となったのは、1947(昭和22)年。

 

昭和174月  工芸技術講習所  入所

昭和193月  工芸技術講習所  卒業

昭和194月  工芸技術講習所  助手

昭和203月  工芸技術講習所  助手辞任

 

井波唯志氏の高山滞在期間は、工芸技術講習所の生徒としては昭和184月~8月頃、工芸技術講習所の助手としては昭和194月~8月頃、「航空会社」で設計の手伝いをしたという昭和199月~不明、と考えられる。

以下は、東京藝術大学アーカイブセンター(20112016)の研究プロジェクト「mono project」の中で、2003217日に行われた井波唯志氏へのインタビュー内容をまとめたものである。

 

〈高山について語ったこと〉

・高山は元々工芸に造詣が深い土地のため、工芸技術講習所を受け入れる基盤があった。

・(井波氏の)先々代・喜六斎の顧客は、高山の旦那衆であった。

 

〈工芸技術講習所について語った事〉

・工芸技術講習所は、産業振興の目的で設立された。

・工芸技術講習所の生徒は卒業後、地場産業を盛り上あげるため、商工省工芸

指導所や各地方の工芸試験所に派遣されることが想定されていた。

 

〈やきものについて語ったこと〉

・加藤土師萌先生が、渋草焼ではまだ行われていなかった釉薬研究を実施し(渋草焼の赤絵、染付以外に青磁など)、ゼーゲルを使用した試験窯でテストピース約500個を製作した。

・富本憲吉先生から、徹夜で染付を習うことがあった。

・渋草焼では器形に対する絵付の模様(デザイン)が伝統的に決まっていたことから、新たな商品を開発するため、工芸技術講習所がその役目を請け負った。

 

〈木工について語っていたこと〉

・工芸技術講習所は「大きな木工会社」(飛騨木工株式会社と思われる)と提携し、試作デザインを提供した。

・工芸技術講習所は千巻漆器による試作品を製作し、海軍へ納めていたと思われる。千巻漆器の石膏型は渋草焼で製作した。

・高山に航空会社があり、助手を辞任後、設計の手伝いをした。

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